宮坂道夫研究室 Michio Miyasaka Lab
『原則と対話で解決に導く医療倫理』を、医学書院から刊行しました
医療従事者は、自分たちの意思決定がどのような考え方に基づき、またどのような話し合いをたどって行われたものなのかを明確にする必要があります。このとき、根拠を明確にしながら判断を下す過程のことを倫理的推論と呼び、判断の過程を他者に明示することを説明責任と呼びます。本書では、医療従事者が適切な倫理的推論を行う力を身につけ、自分たちが行う意思決定についての説明責任を果たせるようになるための知識と方法を解説しています。
◆ 本書「まえがき 」より
医療倫理を学ぶということ
本書の第I部で医療倫理の歴史を解説しているが,ヒポクラテスの時代から2千年以上の歴史を持つ医療のなかで,今日のような患者の権利を重視する医療倫理が確立されたのは,1970年代前後のことでしかない。医科大学などの医療従事者教育課程において,正式な科目として医療倫理が教えられるようになったのも,やはり1970年代以降のことだった。長い年月にわたって,医療倫理は実践の現場で先輩の立ち居振る舞いを見て学ぶものであって,大学などの教室で学ぶものではなかった。今日では,大学や専門学校などの多くの医療従事者養成課程で,医療倫理教育が行われている。
医療倫理の学び方も,これまでの50年間に大きく進歩した。欧米諸国で医療倫理教育が始まった頃は,倫理学や神学などの人文社会科学系の教員だけが担当していたが,次第に医療分野の教員が参加するようになり,教える内容も実践的なものになっていった。これを,医療倫理教育の専門教育への「組み入れ integration」と呼ぶ。この組み入れには垂直方向と水平方向の2つの方向性がある。垂直方向の組み入れは,入学時から卒業までの学習課程の時系列に沿って多段階で教育を行うことである。例えば,最初の学年で基礎的な講義を行い,医療の専門教育が行われる上の学年で実践的な講義や演習を行う。水平方向の組み入れは,多様な背景を持つ教員が参加する学際的な体制で教育を行おうというものである。人文社会科学系の教員と医療系の教員とが協働し,例えば前者が医療倫理の歴史や理論を,後者が臨床事例を題材にした医療倫理各論を教える,ということである。
日本でもこのような「組み入れ」が行われつつあるが,医療倫理を教える教員が十分にいないなど,教育現場によっては学習環境が整っていないこともあるだろう。本書は,そのような場合をも想定して,この1冊によって,医療倫理の基礎的な内容から実践的な内容までを学べる教科書として書かれている。
本書の目的と対象
表題を『原則と対話で解決に導く医療倫理』としているように,本書では,医療倫理の問題について,遠くから俯瞰して終わりにするのではなく,また,「みなで考えていきましょう」のようにして、先送りにするのでもなく,実際に医療現場で生じる問題を解決に導くための道筋を示している。もちろん,医療倫理の問題は複雑であり,これが正解だという解答は存在しないと言ってよい。しかしながら,医療現場で起こる事例では,「治療をするか,しないか」のように,1つの意思決定をしなければならない場面がある。それがいかに難しい問題だとしても,その中心には患者がいて,その周りで不安に苛まれる家族や親しい人たちがいる。彼らの前に立つ医療従事者は,たとえ正解ではないにしても,責任ある意思決定を行わざるを得ない。そのときに,自分たちの意思決定がどのような原則的な考え方に基づくものなのか,またどのような話し合いのプロセスをたどって行われたものなのかを明確にする必要がある。そうやって,根拠を明確にしながら判断を下す過程のことを倫理的推論と呼び,判断の過程を他者に明示することを説明責任と呼ぶ。本書は,医療従事者が適切な倫理的推論を行う力を身につけて,自分たちが行う意思決定についての説明責任を果たせるようになるための知識と方法を解説することを目的としている。
そのような目的のもとで,本書は,大学や専門学校などで学ぶ学生と,医療現場で働く医療従事者との両方を対象としている。医師,歯科医師,薬剤師,看護師,助産師,保健師,診療放射線技師,臨床検査技師,衛生検査技師,理学療法士,作業療法士,管理栄養士,視能訓練士など,あらゆる保健医療職を目指す学生や,これらの職種として現場で働いている人たちが,医療倫理の基礎的な内容を学べるものとなっている。もちろん,現場で働く医療従事者にとっては,もっと細分化された倫理の学習も必要であろうが,本書はその基盤となるべき内容を扱っている。
本書は,教室で行われる講義の教科書や副読本として用いることもでき,また学生や医療従事者が個人で学習する際の参考書として用いることもできる。そのために,医療倫理の基礎的学習に含まれるべき内容を網羅し,また重要な概念や用語にはその定義が明確なものとなるように説明を付してある。いずれの場合でも,究極的には倫理的推論を行う力を身につけていただくことを目的としているために,大学や専門学校に入学したばかりの学生にとっては,やや高度な内容をも含んでいる。しかし,本書で解説している内容は最終的には医療従事者にとって理解しておかなければならないものであり,そのようなものを精選して取りあげている。日本では,医療倫理についての標準的な学習内容が定まっているわけではないが,特に重要な概念や用語については太字で示してある。
本書の構成
倫理的推論を行う力を身につけ,意思決定の説明責任を果たせるようになるための知識と方法を解説するという大きな目的のもとで,本書は5部構成になっている。
第I部は,医療倫理の歴史である。従来の医療倫理のテキストでは,いまもってこの内容は十分に解説されていないものが散見される。しかし,患者の権利やインフォームド・コンセントなど,今日の医療倫理の重要な考え方がどのように確立されてきたのか,「負の遺産」と呼ばれる悲劇的なものを含めて,過去に起こった出来事を知らずに,現在の事例を考えることはできない。本書で取りあげられるのは,医療の長い歴史の一部に過ぎないが,ここで解説している内容は,今日の医療従事者が知っておくべきものである。
第II部は,医療倫理の理論である。医療倫理は,文字通りには「医療についての倫理」であるが,それは単に医療に倫理学の知識を応用すればよいというものではなく,医療現場での倫理的問題についての倫理的推論につながるものでなければならない。幸いなことに,これまでの半世紀で,医療倫理には相当に体系だった理論が構築されている。第II部では,それを原則的アプローチと対話的アプローチという2つに分けて,事例を題材にしながら解説している。
第III~V部は,医療倫理の各論を扱う。医療のあらゆる領域で倫理的問題が生じていて,そこには多岐にわたる医療従事者が関わっている。そのため,医療倫理の各論を細分化すれば,例えば「小児外科の倫理的問題」,「神経内科の倫理的問題」というように,領域ごとの倫理的問題を見ていくことになり,さらには「医師の倫理」,「歯科医師の倫理」,「薬剤師の倫理」,「看護師の倫理」等々と,職種ごとの倫理的問題を別個に考えていくことになる。本書では,領域や職種を横断して医療倫理の問題を考えることができるように,「性と生殖」(第III部),「死」(第IV部),「患者の権利,公衆衛生,研究など」(第V部)という3つの大きなテーマを設定し,幅広い問題をこのいずれかに集約して解説している。
本書の使い方,留意点
先述の通り,本書の第I部と第II部は,全体の基盤となる内容であり,各論の前に必ず読んで理解していただきたい。第III~V部の各論は,学生であれば全体を学習すべきであり、医療従事者であれば,自分にとって必要なテーマに限定して読むこともできるだろう。各論の学習では,ケーススタディを中心に解説している。ケーススタディの利点は,医療現場で生じている実際の事例のように,複雑な状況設定を行って学習できる点にある。欠点は,その事例に限定された学習にとどまって,応用力が身につきにくい点にある。本書では,この利点と欠点を踏まえて,ある程度の状況設定をしながらも,他の事例に応用のきくような解説を行っている。ここに記載されているケーススタディでの倫理的推論を参考にして,他の事例や,実際に医療現場で生じている事例などに応用して,学びを深めていただきたい。
なお,本書のケーススタディで用いているのは,実際の事例を参考にしながらも,あくまで架空の事例である。また,解説で触れている法令や倫理指針,治療ガイドラインなどは,出版時点で最新のものを参照したつもりだが,頻繁に改訂が行われるものであり,その都度最新の情報を調べるようにしていただきたい。
本書全体を通して,用語は慎重に検討したが,課題は残っている。その最たるものが「家族」という用語である。本来は,法律上の位置関係(配偶者,親,子など)に関わらず,「患者に近しい人で,患者の世話などをする人」のことであり,例えば「近親者」の方が適語と言えるかもしれない。しかし,医療現場では,「家族」という言葉が広く使われており,本書ではこの言葉を用いることにした。
その他にも,本書で採用している理論の解釈や解説の内容などは,筆者が広く文献等を参照して客観的に適切と思われるものとしたつもりではあるが,それでも筆者固有の見方などが反映されている可能性がある。教科書であれ参考書であれ,本来学習に用いられる書物とはそのようなものであり,それゆえに,本書以外の類書をも手に取って医療倫理を学習されることが望ましい。
なお,本書は筆者が刊行した『医療倫理学の方法』を発展させたものである。この本は,2005年の初版刊行以来多くの人に読んでいただくことができたが,20年ほどの期間にあった医療倫理の発展や,筆者が勤務先の教育機関や病院等で経験した,実際の事例検討などに基づいて,まったく新しい本としてつくり直した。歴史の記載内容などは旧書のものをかなり踏襲しているが,それ以外の部分はほとんど抜本的に書き改めた。
◆ 目次
まえがき
第I部 医療倫理の歴史
第1章 職業倫理の夜明け
1 古代医療における医療倫理──プロフェッショナリズムの誕生
1) 医療倫理の起源
2) 「ヒポクラテスの誓い」
3) 医療従事者と患者の関係
2 中世から近代にかけての医療倫理の変化──西洋近代医学の発達の光と影
1) 中世における変化
2) 科学としての医学の誕生
3) 医療従事者と患者の関係の変化
4) 社会への貢献
5) 優生学の誕生
6) 近代医療の導入期における日本の医療倫理
第2章 負の遺産と新しい時代
1 医療従事者が人命を奪った悲劇とその断罪
1) ドイツ
2) 日本
3) ドイツと日本の医師たちの戦時犯罪の処断
2 被験者の権利から患者の権利へ
1) 米国から世界に波及した患者の権利
2) 日本での患者の権利
第II部 医療倫理の理論
第3章 倫理,規範,法
1 倫理,規範,法
1) 倫理とは何か
2) 倫理と規範
3) 倫理と法
2 ケーススタディ──倫理,規範,法と医療現場での判断
〈事例〉救急救命士による気管挿管
第4章 倫理理論と原則的アプローチ
1 倫理理論
1) 倫理的推論
2) 義務論と帰結主義
3) 自由主義と共同体主義
4) ケアの倫理,ナラティヴ倫理,討議倫理,徳倫理
2 医療倫理の原則
1) 倫理原則とは何か
2) 米国型の4原則
3) 欧州型の4原則
3 原則的アプローチによる倫理的推論
1) 臨床事例への倫理原則の適用
2) 選択肢の明示と,倫理原則による正当化の根拠の検討
3) 事例によるデモンストレーション
〈事例〉自分の勧める治療法を拒否された医師
第5章 対話的アプローチ
1 対話,ナラティヴ
1) 医療従事者間の対話
2) 対話による倫理的推論のルール
3) 患者や家族との対話と,対等性の障壁
4) ナラティヴ
5) ナラティヴの調停と対話
2 対話的アプローチによる倫理的推論
1) 臨床事例での対話
2) 事例によるデモンストレーション
〈事例〉自分の勧める治療法を拒否された医師
第6章 臨床倫理のツール
1 4分割法
2 臨床倫理ネットワーク日本の臨床倫理検討シート
3 ナイメーヘン法
4 ジレンマ法
5 ナラティヴ検討シート
第III部 性と生殖
第7章 性についての医療倫理
1 性について
1) 性の多面性
2) 性規範,性役割
3) 性同一性
4) 性的関心の対象
5) 性と生殖の健康,性と生殖の権利
2 性についての医療倫理
1) 性分化疾患
2) 性同一性障害(性別不合)
3) 犯罪的な性的嗜好
4) セクシュアリティへの関与
ケーススタディ① 患者のセクシュアリティへの関与についての倫理的推論
〈事例〉性的な介助を求められた理学療法士
第8章 生殖についての医療倫理
1 生殖について
1) 人間の生殖の特徴
2) 女性の権利
3) 子どもの権利
4) 障害者の権利
5) 性的マイノリティの権利
2 生殖についての医療倫理
1) 避妊
2) 人工妊娠中絶
3) 出生前診断,着床前診断,着床前スクリーニング
ケーススタディ② 出生前検査による人工妊娠中絶についての倫理的推論
〈事例〉出生前検査と障害胎児の中絶
4) 不妊治療
第IV部 死
第9章 死についての医療倫理(1)
1 死について
1) 生物学的現象としての死
2) 寿命の伸長と死因の変化
3) ライフイベントとしての死
4) 死生観,死を前にした人の心理
2 死と医療
1) 死の判定
2) 死を遠ざける医療,穏やかな死を迎えるように支援する医療
3) 尊厳死,ホスピス・緩和ケア
4) 自己決定支援,事前指示,ACP,共同意思決定
第10章 死についての医療倫理(2)
1 告知
2 死を早める結果をもたらす処置
ケーススタディ③ 生命維持治療の差し控えについての倫理的推論
〈事例〉透析の拒否
第V部 患者の権利,公衆衛生,研究など
第11章 患者の権利についての医療倫理
1 患者の権利について
1) リスボン宣言の患者の権利,各国での法制化
2) 患者の権利と日本の法制度の課題
3) 意識のない患者,法的無能力の患者
4) 患者の意思に反する処置
2 患者の権利についての医療倫理
1) 患者の判断能力
2) 自己決定と代理決定
3) 自己決定と代理決定の注意点
4) 小児患者の自己決定と代理決定
ケーススタディ④ 小児患者の権利についての倫理的推論
〈事例〉親による,6歳の患者への人工呼吸器の導入の拒否
5) 患者の意思に反する処置
ケーススタディ⑤ 自己危害,他者危害が生じ得る事例での,患者の意思に反する処置についての倫理的推論
〈事例〉認知症患者の身体拘束
第12章 公衆衛生,資源,情報,研究についての医療倫理
1 公衆衛生についての医療倫理
1) 公衆衛生についての倫理的問題の基本的な図式
2) 公衆衛生における倫理原則
3) 公衆衛生における感染症政策
4) 感染症政策の倫理的問題
2 医療資源についての医療倫理
1) 医療資源
2) 生体の医療資源化(1)──臓器移植
3) 生体の医療資源化(2)──クローン技術,再生医療技術
4) 資源配分
3 情報についての医療倫理
1) 情報について
2) 情報倫理の基盤
3) 医療における情報倫理
4) 遺伝情報という特別な情報
5) 遺伝情報についての医療倫理
4 研究についての医療倫理
1) 医療と研究
2) 研究者としての倫理,研究不正
3) 人間を対象とした研究の倫理
4) 動物を対象とした研究の倫理
あとがき
[資料]
WMAジュネーブ宣言
WMAヘルシンキ宣言 人間を対象とする医学研究の倫理的原則
患者の権利に関するWMAリスボン宣言
日本医師会 医の倫理綱領
日本薬剤師会 薬剤師行動規範
日本看護協会 看護職の倫理綱領
日本理学療法士協会 倫理綱領
日本作業療法士協会 倫理綱領
日本視能訓練士協会 倫理規程
日本臨床衛生検査技師会 倫理綱領
日本歯科技工士会 歯科技工士の倫理綱領
索引
[事例](抜粋)
救急救命士による気管挿管
自分の勧める治療法を拒否された医師
性的な介助を求められた理学療法
出生前検査と障害胎児の中絶
透析の拒否
親による,6歳の患者への人工呼吸器の導入の拒否
認知症患者の身体拘束